吹き替え映画の魅力


嬉しいニュースがありました。「バックトゥーザフューチャー」の新しい日本語吹き替えを、宮川一朗太氏が担当するそうです。宮川氏とマイケルJフォックスの相性は抜群で、これまでも多くの吹き替えを担当しているのですが、何故かこの映画は担当してなかったんですね。ご本人も以前、出演を熱望していて、DVDを観ながら自宅で練習してるとおっしゃってました。その夢の吹き替え版が8月に放送されるとの事です。

洋画の吹き替えには昔から賛否両論あります。自分なども学生の頃は、吹き替えで観ることは恥ずかしい、字幕の方がカッコいい、と思っていました。

しかし、歳をとってくると物事の本質にこだわるようになるものです。字幕のデメリット、吹き替えのメリットを強く感じるようになってきました。

まず、字幕のメリットは何でしょうか?

・俳優本人の声が聞ける。

・オリジナルの映画の雰囲気を味わえる。

では、字幕のデメリットは何でしょうか?

・例え簡単な台詞でも、字幕が出ると目がそちらに行ってしまう。

・画面が文字で汚れる。

意識して観ると分かりますが、字幕映画は台詞のたびに反射的に画面の端の文字に目がいっています。話している俳優の顔は、むしろ視野の隅で捉えているだけです。

以前、まだ吹き替え映画を観ることが恥ずかしいと勘違いしていた頃、知り合いの役者さんが、「演技を見たいから敢えて吹き替えを観てます」と教えてくれました。確かに視野に入っていたとしても、演技を十分に味わえる筈は無いのです。「ハリソンフォードの演技は渋いよね」と言っても、字幕映画を見ている限り、ハリソンフォードの顔を凝視して台詞を聞いていた訳ではなく、顔は視界に入っていただけなんです。プロの演技者が吹き替え映画を見ていると知って、安心したのを覚えています。

もうひとつ挙げた、画面が文字で汚れる、というのは、もの作りをしている人の立場を想像できないと、ピンと来ないかもしれません。

映画は映像と音声から成り立っていますが、言うまでもなく映像が命です。カメラマン、撮影監督や美術監督が綿密に計算して無駄のない画面を作り込んでいる筈なのです。そこに真っ白な文字を重ねて出してしまう、というのは、せっかくの計算が狂っている筈だ、と思うのです。

例えば暗い画面で、会話だけ聞こえる場面。中央に何かが微かに映っている。これはわざと見にくくして、観客の注意を画面中央に集中させる意図で設計された画面です。ところが会話の字幕が画面の端に出るたびに、視線は動いてしまいます。映像設計者の意図した仕掛けが全く機能しないのです。字幕版の後に吹き替え版を見たら、映像情報のかなりの量を見落としていた事に気付いて驚いた、という話も良く聞きます。

あるいは絵画を描いて展覧会に出したとしましょう。その作品に、例え絵の端とは言え、文字を書き込んでしまう事はしないでしょう。

確かにオリジナルの音声を聞くことが理想です。しかし、言語の違いを埋める手段として、字幕を入れ込むという行為は、かなり不自然で乱暴なことかもしれません。最近では一部の優れた3D映画は劇場内でスクリーンの存在を忘れさせるほどだそうですが、字幕は厳然とスクリーンの位置を主張してしまうのです。

吹き替えへの批判にももっともなものがあります。配役が合っていない、というのは主観的なものなのでなんとも言えませんが、問題は下手な人が吹き替えると頭のなかでいくら補整しようとしても無理が出るということです。刑事コロンボの小池朝雄、イーストウッドの山田康夫など、本物の実力を持った人の吹き替えは納得できるのではないでしょうか?自然な吹き替えで、本来の画面設計の意図を堪能する、というのは、少なくとも映像作品の楽しみかたとしては理想の一つだと思います。

そんなわけで、宮川一朗太版「バックトゥーザフューチャー」は楽しみなのです。

 

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