一休さんの罪
「このはしわたるべからず」というと、誰もが一休さんのエピソードを思い浮かべると思います。落ちは、「はし」を「橋」ではなく「端」と解釈して真ん中を堂々と渡るというものです。さすが、とんちの一休さん、という事になるんですが、この話を「さすが」と思うためには、いくつも前提条件が必要なんですね。
当然の事ながら、橋が壊れていて通行禁止になっているのであれば、真ん中であろうが渡っちゃダメなわけです。あるいは、橋の建設や維持のためにコストがかかる、その為に通行料金を取る、という制度を作ったのに「真ん中を渡ればいいだろう」とはならないのです。
一休さんの話を「さすが」と解釈するためには、行政が意味もなく通行止めにしているとか、不当な通行料金を取っている、というような前提条件が必要なわけで、そのような前提条件が揃っていたとしても、悪法とはいえ、ルールを無視して行動するわけで、その点での処罰は覚悟しなければいけない筈です。
この一休さんのトンチの知識を子供の頃からすりこまれていると、本末転倒な、おかしな論理がまかり通るようになるのです。
先日、自動車のナンバープレートのカバーのうち、一部の商品は使ってはいけない事に、やっとなりました。どういう商品かというと、ナンバーが見にくくなるものです。当たり前すぎてあきれてしまいます。中には、スピード違反をした際の写真撮影で、文字を判読できないようにするためのプレートもあったと思います。それら商品のうたい文句はプレートを汚れから守ったり、ファッションです。実用面の優位性やファッションは否定しませんが、本来の機能である、文字の判読が少しでも損なわれるなら、即刻禁止すべきでしょう。
また、連日、死傷事故が絶えない危険ドラッグについても、これだけ因果関係が濃厚に疑われている訳ですから、優先的に禁止する法律を作るべきでしょう。後から、万一、有害性が無いことがわかった場合は、禁止を解除して必要なら賠償するなりすればいい。
法律というのは絶対に見えて、解釈によって白にも黒にもなります。それが、何のためのルールなのか、という本質を見失って、一休さん気取りのトンチですり抜けて商売をしようとするのは、実は子供の頃から知っている一休さんの影響なのかもしれません。