既製品を買わず自分で作る意義・創作行為の意味
創作活動全般について考えてみます。
まず、世の中にはあらゆるものが溢れています。
例えば小説についても、とても把握できないほどの分量の出版物が出回っていますし、映画などの映像作品についてもそうです。大抵のものは、わざわざ自分が作らなくても、既に似たものは大量に存在しているんです。
例えば小説についても、とても把握できないほどの分量の出版物が出回っていますし、映画などの映像作品についてもそうです。大抵のものは、わざわざ自分が作らなくても、既に似たものは大量に存在しているんです。
そんな状況の中、特にアマチュア作家が「創作」する意味はあるのか。
創作活動をする側から見ると、動機は明白です。単純に「自分で作ってみたい」のです。
さらに、現代は作ったものを容易に第三者に見せられる環境があります。
例えば「小説家になろう」という、そのものズバリのサイトがあります。これは誰でも自分で書いた小説を投稿して、不特定多数の読者に読んでもらえるサイトです。
私もいくつかの小説を投稿していますが、目的は「小説家気分を味わうこと」と言っていいでしょう。勝手に締め切りを設定して、連載小説の締め切りに追われる感覚を楽しむことができます。
普通の小説コンテスト投稿では、知名度のある賞を取って、雑誌に掲載でもされない限り、恐らく審査のための下読みする人しか読者にはなりません。
私もいくつかの小説を投稿していますが、目的は「小説家気分を味わうこと」と言っていいでしょう。勝手に締め切りを設定して、連載小説の締め切りに追われる感覚を楽しむことができます。
普通の小説コンテスト投稿では、知名度のある賞を取って、雑誌に掲載でもされない限り、恐らく審査のための下読みする人しか読者にはなりません。
ところがこういう小説投稿サイトでは、地道に書いていると、うまくいけば数十人、数百人の人に読んでもらえて、メッセージを貰えることもあります。
同じ自己満足と言っても、それなりに高いレベルで得られます。
映像作品についてもそうです。
今は上映会などを開かなくても、動画サイトに投稿して多くの人に見て貰うことができます。
同じ自己満足と言っても、それなりに高いレベルで得られます。
映像作品についてもそうです。
今は上映会などを開かなくても、動画サイトに投稿して多くの人に見て貰うことができます。
ところが見る側からすると、どうか。
既製品と変わらないものなら、わざわざ無名の作家が作ったもの(レベルの低いもの)を見る必要はありません。
自分の好きなジャンルの小説を読みつくしてしまっていれば、無名作家の小説でも楽しんで読むかもしれませんが、そうでない限り、商業作品に劣る小説を読む必要はないのです。
ただし、商業作品に比べ、色々と難点があったとしても、読む価値がある、というか、読みたくなる小説というのは存在します。
それは、既製品とはどこか違う、「新しい組み合わせが存在している場合」です。
例えば、アマチュア作品だったとしても、私が読みたいと思う小説は、こんなものです。
・考古学や神秘学を扱った「インディ・ジョーンズ」の要素がありつつ、日本が舞台になっている冒険小説
・宇宙から来たエイリアンと戦う舞台が宇宙船ではなく、建設中の安土城で、最後は城を焼いて退治するアクション時代劇
完全オリジナルではなくても、物語の要素の組み合わせが、ちょっと変わっていれば、既製品とは違うものとして鑑賞する価値が出る可能性があるとは思いませんか?
我々、アマチュア創作者は、基本的に自己満足の為に創作活動をしています。
しかし、どうせなら、自分が読者の立場でも読みたいもの、あるいは、観客として見たい映画を作った方がいいでしょう。
既製品としては見当たらない「組み合わせ」を考えると、第三者の鑑賞者にとっても価値があり、創作者にとってもより高いレベルの自己満足を得られるようになるのではないでしょうか。