教育施設としての動物園の役割を正しく活かそう
我が家から車で30分ほどで「ズーラシア」という動物園に行けます。
子供の頃、動物園の記憶はほとんどなくて、動物図鑑は好きだったくせに動物園にはあまり興味が無かったようです。
逆に、大人になってから自分の楽しみとして、動物園にちょくちょく行きます。
子供の頃から図鑑ばかり見てたせいで、基本的な知識は比較的多いほうかと思うのですが、大事なことは、野性動物をじかに見て、「でっかいなあ」「おかしな姿だなあ」と純粋に驚嘆する事だと思うのです。
単純に大きな動物を見るだけで、圧倒されます。猛獣にガラス越しに睨まれると、安全が確保されていることは分かっているのに、紛れもなく恐怖を感じます。動物の牙や爪、そして目を見れば、生物として、圧倒的に自分たち人間が劣っていることを実感するのです。
そして、それこそが、動物園で感じるべき感覚ではないかと思います。
ところが、家族連れの会話を聞くと、怖がっている子供に対して「怖くないよ、かわいいね」と言い聞かせている大人が多いのです。
なだめたいのは分かりますが、せっかく子供が正しい本能を発動して「怖い」と感じているのですから、「怖いね。でもここは安全だから大丈夫」と言い聞かせて欲しいものです。
これは実は、私たちが長年、望ましい姿として受け取ってきた「ファンタジー」と「現実」の違いが正しく認識できていない、という大きな問題に繋がっている気がします。
子供向けの物語やアニメにおいて、ラスカルのような例外的秀作はあるものの、おおむね、「どんな他者とも理解しあえる」というファンタジーが基本になっています。
確かに、人間と犬のように、全く違う種類の動物が、完全に信頼関係を結べる例もありますが、そもそも生きる価値観が違うのですから、理解しあえる訳ではないのです。それも、多くの場合、人間の生活や価値観は確保しつつ、動物と理解しあう事を望むということは、相手を自分のルールに当てはめるわけすから、決して公平なスタンスではありません。
金持ちが貧乏な娘にきれいな服を着せて、セレブな生活ができるようにしてあげることで、娘を幸せにした、という考えは上から目線というか、価値観の押し付けです。これと似たような状況を「みんな幸せ」と考えると、色んな反発が生まれます。
現実には、他者とは完全に価値観の共有は出来ないし、完全な理解は出来ない、と認識すべきです。もちろん、理解できたらそれに越したことはありません。
「みんな同じ」という安心を探すのではなく「みんな違う」ということを認めて、それを尊重しあう、またはお互いに距離をおいた方が良ければ、離れている、というのが望ましい姿なのではないでしょうか。
私にとって、動物園はそんな事を再認識する場でもあります。