考えるな、感じろ。「型」は「目的」ではない
私はずいぶん以前から、妄想レベルの企画書を書いたり、小説やシナリオを書いたり、ということを個人的には続けています。
ほとんどは発表する機会もない訳ですが、まれに、手作りで製本した小冊子を、販売用のDVDのオマケとして付けていた事があります。
2016年は、以前から興味があった、Kindleで電子書籍の出版に挑戦しようと思います。
原稿の元は、やはり、以前からメモの形で書き溜めていた、自主映画製作のための裏技的ノウハウで、既にタイトルは「邪道映画術」と決めています。
これは、実は私の好きな、ブルース・リーという人の考え方に影響されたものです。実際には、私なりの解釈なので、もっと深くブルース・リーの事を研究している方からすると、間違っているのかもしれませんが。
どういう考えかというと、「徹底して、本末転倒を避ける」ということです。
格闘家としてのブルース・リーは、闘いになったときにいかにして勝つか、ということを目的にしていたはずです。
アメリカで道場経営をしていたのですから、自分より体の大きな弟子達の前で、自分の圧倒的な強さを見せ付ける必要もありました。
実際に近代的で合理的なトレーニングを取り入れていて、その強さは周囲の人が皆、納得できる説得力を持っていました。
ブルース・リーが嫌ったトレーニングで「型」の練習があります。
もちろん、「型」には本来、意味があって、100%否定すべきものでないことは明らかです。
ただ、「型」は「目的」ではないのです。
戦いのための、あるいは護身のための技術として武術が生まれて、それを効果的に訓練する為に「型」が生まれたはずです。
良くある中国武術の、片足で立つ型なども、あんな形で戦うためのものであるはずがありません。
片足で立つ訓練によって、バランス感覚を鍛えたり、足腰を強くする、というような「手段」である筈です。
それが、実戦から遠ざかって型の練習をしていると、「型」の習得そのものが「目的」であるかのように錯覚してしまう、という状態を、ブルース・リーは批判していたのだと思います。
映画の中で有名な台詞に「考えるな、感じろ」というのがありますが、私はそれに続く台詞こそ、大事な本質を言っていると思います。「それは月をさす指のようなものだ。指に集中してしまっては、その先の栄光を見失う」というものです。この「指」が「型」であり「手段」です。「月」は「栄光」「目的」です。
私は若い頃から、ブルース・リーのこの思想が好きでした。
ブルース・リーがスパーリングという実戦をやることで、個々の課題を確認して、必要なトレーニングをする、という合理的な訓練は、格闘家ではない私達も日々の生活の中で応用できるはずです。
受験生の頃は、「模擬試験」というスパーリングがありました。友人の中には「もう少し実力を付けてから受ける」という人もいましたが、私はまずスパーリングでボロボロになってみて、課題を確認することが重要と思ってましたから、頻繁に模擬試験を受けていました。(予備校生だったので、模擬試験が受け放題だった、というのも大きいですが)
そして、特に弱い部分に集中して勉強する、ということをしていました。
社会人になってからも、「それは手段なのか、目的なのか」という視点で見ると、「それは望ましい行動なのか、望ましくは無いけれども一時的には必要な行動なのか」ということの判断は出来ます。
もっとも、実生活では、正論が通るというわけではないところが面白くて、できるだけ本筋を外れないように妥協する必要があるのですが、そんなときでも目的と手段を取り違える、本末転倒な状況は避けたり自覚したりしなければいけないと思います。
話は大きく脱線しましたが、私がコツコツと書き溜めている「邪道映画術」というのは、昔からある映画作りのセオリーに反して、邪道といわれるような手法を積極的に使ってでも、元々、素人には完成させることが困難な、自主映画というものを完成させよう、ということを書いたものです。
手法はあくまでも「手段」であって、「目的」は映画の完成だ、という捉え方です。
映像のプロの人や、プロの手法が望ましいと思う人は、顔をしかめる内容かもしれません。でも、それを実践して「面白い映画」がもし、出来たとすれば、ブルース・リーのような痛快さを味わえる、と楽しみにしています。