ストーリーの擬人化と文章力
昨年、この大会の募集案内のビデオ撮影から関わってきたので、これで一つのプロジェクトが終了したことになります。
他の審査員は、プロの小説家や、小説やストーリーの講師をしている面々で、私一人、一般読者代表、というような形でした。そんな立場なので的確なコメントは難しかったのですが、主に、映像化の可能性という視点から話を振ってもらっていました。
審査対象の作品は19本あって、1ヶ月ほど前に、審査用として送ってもらっていたものを、あらかじめ読んでいました。
応募者は、既に何かしらの賞を取られている方、漫画家から、恐らく創作の初心者の方まで、様々なレベルの方が入り交じっていている上、書かれているジャンルがまちまちなので、目を通すだけでも、かなりエネルギーを使いました。
面白かったのは、短い小説、という特性上なのか、読む人によって解釈が違う、ということが頻発する点です。
講評の席上でも、4人の審査員による、物語の解釈が食い違う場面が時々あって、参加者の中に作者本人がいる場合は、正解を聞く、というクイズ形式のような展開でも盛り上がりました。
私は長年、技術文書の作成を仕事にしていたので、出来る限り、文章の解釈が、読む人によって変わらないように、という事を意識していました。
小説も、基本的には、作者が意図する設定を正しく伝える必要があるものの、読者の解釈によって、別のストーリーとして成り立ってしまう事がある、という現象を、面白く観察しました。
これは錯覚なんですが、作者の手によって産み出されたストーリーの中には、読者を誤解させてでも、何とか生き残って、一人でも多くの目に触れさせよう、という生命力を感じるものがあります。
それは、扱う題材や、登場人物の描写など、何かしらの魅力が「物語の生命力」として発揮される結果なのかもしれません。
それはそれで面白かったのですが、問題意識も持ちました。
よく考えてみると、学校で学ぶ国語教育、特に文章力の養い方には、重大な欠陥があるのではないでしょうか。
国語の教科書には、教材として、小説が載っています。
美しい日本語のお手本としての役割もあるのでしょう。
しかし、そもそも小説というのは、別の解釈をしても構わないジャンルの文章です。
俳句や短歌など、短い文章の創作では、掛詞(かけことば)のように、あえて二重の意味を持たせている場合もあるほどです。
これは、高度な言葉遊びのようなもので、面白いものではありますが、日本語は、そんな創作だけのための言葉ではありません。
てにをはの使い方一つで、文章の意味が変わってしまう事は、よくあります。