特撮映画としての「初代ゴジラ海外版」
二重の意味での「特撮映画」
有名な円谷英二監督作品「ゴジラ」はアメリカでもヒットしました。
それでアメリカにもゴジラファンが多く存在するのですが、アメリカで公開されたのが、この「ゴジラ(英語版)」です。
この作品は、「単にセリフを英語に吹き替えた」という内容ではなく、かなり変わった作りの映画です。
私も知識としては知っていたのですが、先日、初めて通して観て、いろんな意味で感心しました。
内容を簡単に紹介すると、謎の怪獣ゴジラが日本に現れて破壊の限りを尽くし、最後に海底で倒されるのはもちろん変わりません。
しかし、主人公としてアメリカ人記者が追加されているのが大きな特徴です。
アメリカ人記者のシーンは追加撮影されています。
まったく別の追加シーンは、当たり前に追加撮影しているので、特筆すべきこともありません。
しかし、元々あった、志村喬たち、日本人俳優のシーンにも、「部屋の隅でその議論を傍観している」という形で、アメリカ人記者が映像に組み込まれているのです。
ゴジラが現れた海岸で騒ぎになっている場面でも、記者として地元の人たちに取材する場面など、恐らくアメリカで撮影したのでしょうが、とても自然につながっています。
地元の村人の日本語がカタコトなのは、恐らく日系人俳優を使っているせいでしょう。
さすがに志村喬など、メインの日本人と会話しているように編集したシーンはありませんが、オリジナルの出演者たちからすれば、英語版では、見たこともない俳優と同じシーンで競演していることになっているわけです。
別々に撮影した映像をカット編集するだけで、違う意味、違う状況を表せるという、映画ならではの特徴を存分に活かした例と言えるでしょう。
これをオリジナルへの冒涜とみるか、映画の醍醐味とみるかは、「作家性」を重視するか、映画を構築する「技術」を重視するかによると思います。
私は、もちろん、これが邪道だとは認めた上で、「これぞ映画の醍醐味のひとつ」と思います。
極端な例を出せば、ブルース・リーの「死亡遊戯」のように出演者本人さえ知らない新作も作れてしまうのが、「技術としての映画」です。最近のMAD動画にも通じるものがあります。
権利の問題や、そもそもの賛否はあると思いますが、「過去の映画をパッチワークのように編集しなおして、別の作品を作る」ということは、その作品なりキャラクター自身に、「形を変えてでも生き延びてやる」という生命力があるような気がしてならないのです。
少なくとも「観客」の立場として、私はこの作品を大いに楽しみました。
最後までお読みいただきましてありがとうございました。
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