ハンコ文化は守るべき?という意見を映画に盛り込むという事
役所関係の書類、経理の書類。
多くの書類にはハンコを押す欄があります。
あなたは、ハンコを押す習慣に疑問を感じませんか?
私は非常に疑問を持っています。(ハンコ業者には申し訳ありませんが)
ハンコは、基本的に、「大事な書類」に押すものです。
例えば、私が、「升田」というハンコを押せば、「これは、間違いなく私が作成した書類です」という重みが増すわけです。
でも、それはおかしいですよね?
直筆のサインであれば、筆跡鑑定によって、かなりの確率で、「本人が書いたものだ」と判定できますが、ハンコはどこにでも売っています。
本人以外でも、簡単に購入できるのですから、本人が確認して了承した書類だ、という証明になどなっていません。
そもそもハンコが存在の意義を発揮するのは、サインを書く手間を減らしたいというときです。
しかも、「必ずしも本人でなくても押せる」という性質から考えると、重要な正式書類には向かない筈です。
現実には、「形式的に受領の印がほしい」、というときはサイン可で、本人に重大な責任がかかる書類には、ハンコじゃないとダメ(但し、外国人はハンコの習慣がないからサインで可)、という滑稽な状況です。
以前、自動車関係の手続きで陸運局に行って、カウンターで目を疑いました。
書類にハンコを押し忘れた人のために、使い古した大量のハンコを入れた箱が置いてあったんです。
「ハンコを忘れた人は、自分と同じ名前のハンコを探して書類に押してください」という訳です。
これは根本的におかしいでしょう?
「ハンコを押すのは形式的なものだから、それで問題ないんだ」ということであれば、ハンコの欄自体を無くせば良いんです。
30年も前にそうしていれば、象やサイが密猟者に殺される数は、半減していたはずです。
そもそも役所関係の書類というのは、非合理極まりないフォーマットであることが多くて呆れます。
「そんな狭いスペースに住所が書ききれる訳ないだろう」という小さな住所欄。
「どれだけ長い名前を想定してるんだ」という余裕のある名前の記入欄。
そして、わざわざ判読しにくくなるのに、ハンコは「印」というプリントの「上」に重ねて押す事になってます。
「こういうルールが長年続いてるんだから仕方ないだろう」と許してしまっている我々に罪があります。
こういう小さいことこそ、声を上げて、改善する方向に持っていかなければいけません。
とは言っても、役所の職員に直接文句を言っても、ただのクレーマーです。
少しづつ、意見としてこうやって発信して、賛同者を増やしていくことが、おかしな習慣の改善に繋がるのかなあ、と思います。
そして、こういう意見を広める手段として、例えば、映画やドラマの中で、登場人物にそういう会話をさせる、という事が有効です。
しかも、説教じみた言い方ではなく、何気ないセリフや場面に組み込むことが大切です。
映画には様々な顔がありますが、時間やエネルギーを注いで作るのですから、作品の趣旨に反しない範囲で、色々な「役割」を担わせることも可能になります。
そんな性質を利用することで、製作の協力者を集める工夫も重要になってきます。