オーソドックスな映像設計が最強説:創作における「高望み」の落とし穴
失敗の原因は「高望み」である可能性が高い
私が戒めとして常々思い返す言葉に「眼高手低」があります。
技術がないのに理想だけ高いという負の状態を言います。
高望み自体を否定してしまうと向上がありませんから、スタートとして理想を掲げるのは良いんです。
それを現実化しようとしたときに、自分の実力の範囲内かちょっと頑張れば達成できるというレベルを見極めて挑戦することが大事です。
そういう私自身、いまだに製作途中で進行が頓挫してしまっている企画がいくつもあったりするのは、「頑張れば達成できるかも」という見積もりが甘く、高望みしてしまっているのが原因だったりします。
人には2種類あります。
ワークショップなどを開催すると分かるのですが、基本のやり方を提示して「ではやってみてください」と言われて、
- 言われた通りにやる
- 自分なりの工夫を加えて違うことをする
という人に分かれます。
そして、創作をしようという人はどちらかというと少数派で個性的な人が多いですから、人と違うことをやろうとしがちなんです。
もちろん、それが多様性を生んで楽しいという側面もあります。
ただ、技術を組み合わせた作業である以上、経験も無しに思ったとおりにやると、失敗したり完成しなかったりするんです。
ですから、まずはオリジナリティを追求したい欲望を抑えて、オーソドックスな形で「完成させる」という体験を繰り返すことが重要で、それがいずれ自分なりのオリジナリティのある作品が作れるようになる近道でもあるんです。
普段から新しいことを勉強してスキルを身に付ける人は、「一通りはまず指示通りにやってみる」ということが大切であることを知っているので、特に注意しなくても大抵、指示通りにやってくれます。
オーソドックスな映像の組み合わせが一番見やすいという事実
私も基本的に凝った映像は好きです。
映画などを見ても、風変わりで独特な構図の作品を見ると、自分でもやってみたくなります。
実際、そんな作品の要素を真似た映像を自作に多く取り込んだこともあるんですが、驚くほどその映像が観客のストレスになる事が多いんです。
要は映像の流れの中で不自然になって、理解しづらいために視聴の負担になるということです。
創作の基本は個人の自己満足ではありますが、観客の評価は必ず気になります。
評価・承認されてこそ巨大な満足感を感じられるものだからです。
一方で、非常にオーソドックスに、言い換えれば特に新しさの無い構図で構成された映像を作ると、観客の感想は「物語の中身」になってきます。
視聴に無駄なストレスが掛からないので、内容を味わえるようになるんです。この事実は重視すべきです。
しかも、オーソドックスな映像は比較的撮りやすい特徴があります。
悲しいことに凝った映像は時間も掛かり苦労した上に、観客の不評を買って作品の評価を下げる可能性が高いんです。
そういう意味でも、アート映像でない限りは、奇をてらった映像を作ることは避けた方が賢明です。
映像の教科書は例外的な手法の紹介が多すぎる
あなたは、映画評論家が「面白い」と紹介する映画がちっとも面白くなくて、文句なしに面白いと思う映画が批判されがちなことを不思議に思ったことが無いでしょうか?
今ではあまり聞きませんが、昔は「好きな映画は『バック・トゥ・ザ・フューチャー』だ」と言うと、バカにする映画マニアがたくさんいました。
難解な作品を褒める一方で、分かりやすいエンタメ作品を貶すことで、自分たちの見識の高さを確認したい人たちは今でもいます。
そうなってしまう理由の一つは、映画マニアは鑑賞する数が膨大なことです。
つまり、一般的に面白さを感じる作品は見飽きてしまって、別の刺激を求める段階に入ってしまっているんです。
そういう人たちにとっては、オーソドックスなエンタメ作品は刺激が弱すぎて、満足できない訳ですが、それは感性が変質しているだけのことであって、けっしてレベルが高くなっている事とは限らないと思います。
私は「ベタ」な作品を手堅く完成させて、多くの一般客を楽しませてくれる山崎貴監督や矢口史靖監督の作品が大好きですし、マニアでない人を惹きつける方がはるかに偉大なことだと思っています。
私は学生時代、まだ自分で映画を作ったことが無い頃に、他の人たちが作る自主制作映画を見ていて、「これはやらないようにしよう」と思ったことがたくさんありました。
その一つは「激しいカメラワーク」です。
演出としてカメラを激しく動かす手法はありますが、特にアマチュアの場合、本人たちは狙いのつもりでやっていても、観客にとっては単なる見づらい「失敗映像」にしか見えないんです。
この「無駄な手振れ映像」を無くすだけで、作品の質は格段に上がるはずだと確信して、初めての長編作品「水晶髑髏伝説」では全900カットのほとんどを三脚固定カメラで撮りました。
実際、その効果は十分に感じました。
その後、撮影時間短縮の実験も兼ねて、「ほぼ全編手持ちカメラ撮影」の作品も作りましたが、あくまでも手振れは最小限に押さえることを心掛けています。
ところが、映画の教科書ともいえる、プロが執筆した書籍を見ると、「迫力や臨場感を出すためにわざとカメラを揺らす手法」が大抵書かれているんです。
ただでさえ技術が未熟な状態で、わざとカメラを揺らす演出に挑戦して良い結果が出るでしょうか?
「主人公の不安を感じさせるためにわざとカメラを傾ける手法」も大抵書かれています。
これも他の場面が技術的な理由から不安定になりがちな作品の中で見ると、演出ではなく単なる失敗に見えます。
映画の教科書は映画を見飽きるほど見た人が作っているので、こういう「例外的」な撮影を演出に利用して「プラスα」を生み出すことを載せたくなるのも分かります。
そして全くの初心者もそこに面白さを感じて、やってみたくなってしまうのも分かりますが、技術が身に付いていない段階では例外的な演出を狙って失敗するより、オーソドックスに仕上げることです。
大丈夫です。
オーソドックスに仕上げても充分大きな満足感は得られますから。
繋がって見える最低限のパターンを意識する
映画で意識しなければいけないのは「シーンの中の一連の動きは繋がっているように見せる」ということです。
やってみると分かりますが、演劇と違ってバラバラの映像を組み合わせる映画は、「繋がって見えない」という失敗が起きやすいんです。
完成作品では1分間のやりとりも、実際は2時間くらいかけて撮影したりするので、気を抜くと色々と矛盾が生じがちなんです。
矛盾は混乱を生むので、アート映画でない限りマイナスの要素となります。
ただ、実際には矛盾が生じていても、観客が不自然に感じにくい場合もあります。
これはカット割りの順番に起因することが多いので、「失敗しにくいカット割りのパターン」を多用することをおススメします。
今回は1つだけポイントを紹介します。
オーソドックスな映像展開のパターンはシンプルです。
その場所で起きている事を
- 引きの映像
- アップの映像
に分解して撮影し繋げることです。
この中で、「引きの映像」>「引きの映像」という繋げ方を禁止してください。
2人が会話をしているシーンで、仮に途中から服の袖をまくってしまったとします。
状況的には明らかに矛盾していて、「引きの映像」>「引きの映像」という繋ぎ方をすると、その瞬間、ほとんどの観客はそれに気付いてしまいます。
気付いた矛盾に目を瞑って物語に集中しようとすると余計なストレスが生まれ、大抵の人は興ざめしてしまうんです。
ところがその映像の間に「顔のアップ」を挟むことで、途中から服の袖がまくられていても気付かなかったり、気付いてもあまりストレスは生じません。
もちろん、撮影中にお互い充分に注意することが大切ですが、細かなミスは必ず起きます。
特に絵コンテを使わない撮影の場合は、編集段階になって「映像が足りなくて繋がらない」ということになりがちです。
「間に挟めることが出来る顔のアップ映像」を撮っておくことをおススメします。
参考になれば幸いです。
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