原作改変が悪なのではなく約束を破ることが悪いのだ:映像的変換の必要性

原作絶対主義 vs 映像的改変主義

連載中のコミックをテレビドラマ化する際に内容を改変した事が問題になり、原作者が亡くなってしまうという大惨事になったことは記憶に新しいところです。

「原作は絶対に守られるべきものであり、映像的な改変そのものが悪いこと」と認識してしまった人もいるかもしれません。

 

原作絶対主義の人は、これまでに作られた「原作もの」のうち「興行的失敗作」を嬉々として挙げ連ね、「原作をそのまま映像化すればいいのに、余計な改変をしたからこんな失敗に終わったんだ」と批判します。

一方で、その意見に従って、出来るだけ原作通りのイメージを再現しようとすると、「コスプレみたい」「学芸会か」とまた批判します。

まるで批判をするためにアラを探しているように見えますし、実際、批判の発信でのみ承認欲求を得ようとする人の多さは不気味で度が過ぎているように感じます。

 

そんなみっともないクレーマーの発信はともかく、実際のところ、そもそも原作がある作品を「そのまま映像化する」ということは出来るんでしょうか?

 

ネックになるのは、作品が持つ「具体性」です。

例えば「小説」は文章で構成されていますし、その文章も視覚的な説明だけをしているわけではありませんから、かなり具体性が低いと言えます。

これを「そのまま映像化」は出来ません。

「どういう映像や音声を組み合わせるか」ということを徹底的に「具体的に」設計しないと形にならないわけですからね。

舞台演劇と違って、その「場面」のデザインと登場人物の配置を設計するだけではありません。

カメラをどこにおいて、何を映像として捉え、どの順番で見せるか、ということまで具体的に設計することが「映像化」なんです。

その具体化する根拠になるのは、作業をする人に浮かんだイメージ」ですから、これは十人十色のはずです。

 

よく、原作ものを映画化する際、原作者が主演俳優に対して「イメージにぴったり!」と喜んでコメントしているのを見て、「全然イメージが違うじゃないか!忖度するな!」などという人がいますが、そういう人は「自分のイメージが正しい。みんなもそう思っているはずだ」と子供のような勘違いをしてるんです。

 

イメージは人それぞれ違います。

もの凄いエネルギーを注いで原作を作った本人が「イメージに合っている」と喜んでいるのに、一読者が「全然合っていない。嘆かわしい」と主張するのは滑稽以外の何者でもありません。

 

結論は、そもそも原作小説を映像化する場合、誰もが「そのままのイメージ」と感じる作品にすることは不可能なんです。

 

また、イメージ以外にもさまざまな制約が映像化にはあります。

映像化すると大抵の場合、原作小説を圧縮して構築する必要があるため、内容の取捨選択も余儀なくされます。

また、「映像に適した表現」という要素もありますから、小説そのままのストーリー展開を目指しても、映像作品としては成り立たないことも多いんです。

場合によってはキャラクターを統合して人数を減らしたり、逆に増やすこともあります。

映画やドラマは人気商売ですが、仮に「今売れているこの俳優を使いたい」というような商業的な理由を抜きにしても、映像として成り立たせるために、多かれ少なかれ「改変」は必要です。

改変の達人による職人芸は映画の大きな魅力

映画脚本家・橋本忍という人は、原作を元に脚本化を依頼される際、「私は変えますよ」と先に宣言してから請けていたそうです。

松本清張原作の人気小説「ゼロの焦点」を映画化する際も、クライマックスを改変することで結末をより印象的にしてテーマを引き立たせました。

それに感銘を受けた松本清張は、「どんどん改変して良いから『砂の器』も映画化してくれないか」と直接持ち掛けたと言います。

試行錯誤の結果、さまざまな効果的改変を加えて完成した「砂の器」は、試写を見た原作者に「この映画は小説を超えている」と大絶賛される傑作映画になりました。

私も面白くて何度も見ています。

 

興味ぶかいのは、ポスターにもなっている印象的な「親子の旅」の場面です。

ハンセン病のため迫害を受け、幼い息子と日本中を回らなければいけなかった過酷な旅、時に四季の風景に和んだり、という場面は、実は原作には全く無いと言いますから驚きです。

原作にあるのは「どんな旅だったのかは二人しか知らない」という一文だけなんです。

 

その他にも原作から改変した部分がことごとく圧倒的な効果を生んでいる印象です。

こういう名人の職人技を見せられると、「改変は悪で原作のまま映像化すべきだ」という意見とは真逆に、「改変による面白さをもっと見せて欲しい」とさえ思えます。

問題は約束やルールを守らない事

特に最近の日本のテレビドラマは、とても余裕がないビジネスになっています。

オリジナルの話を企画する余裕もないので、ストーリーも出来上がっていて、視覚的なデザインも形になっている「コミック」を原作としたドラマや映画が量産されています。

 

重要なのは、改変について同意された作品を使うことです。

改変にも度合いがあって、作家の京極夏彦などは、映像化、コミック化などに対して「小説とは別物なのでどうぞご自由に」というスタンスです。

本人もその映画にちょっと出演していたりしますから、本当に別物として楽しんでいるのでしょう。

これが、原作と映像化作品の幸せな関係のような気がします

また、テーマが歪められない範囲で、制約に合わせた改変は許容する、という約束もあり得ます。

松岡圭祐は「催眠」という小説で、「催眠術というのは決して恐ろしいものではない」ということをテーマにしたのに、映画版では「催眠術は人も殺せる恐ろしいものだ」という真逆のホラー話にされてしまい、激怒したそうです。

作品で伝えたかったテーマ自体を捻じ曲げられてしまうというのは、キャラクターのイメージがどうこうとは別次元の、酷い改変の例ですね。

松岡圭祐は続編小説の「千里眼」は、抗議の意味で、あえて別の映画会社で映像化させています。

 

映像化において改変は決して「悪」ではないんです。

ことさらおかしな、それほど効果的とも思えないような改変をして、自分の作家性を出そうとする人もいますが、基本的には、原作の魅力を映像メディアに変換して発信するためには改変が必要なんです。

問題なのは「原作通り、改変せずに映像化しますよ」と出来もしない約束をしておきながら、その後の事情によってその約束を反故にすることです。

 

製作体制に余裕はありませんから「製作が始まってから原作者のチェックを受けて納得のいく形に修正します」というような折衷案は恐らく機能しません。

スケジュールにそんな余裕は無いからです。

実際問題、「修正に納得がいかないので放送しないでください」という要望は通らないでしょう。

ですから、原作ものを映像化したい場合、現実的な方法としては、事前に「映像化に伴った改変の許可が下りた作品」だけを使うべきだと思います。

許可が不要な原作を使用する

私たちのDIY映画では、商業小説やコミックを改変して映像化することはそもそも出来ません。

無許可で映像化すれば、法律に違反することになります。

 

もし、小説を改変して映画化する面白さを味わいたいのであれば、オススメなのは著作権が切れた古い小説を使用することです。

「青空文庫」というサイトにはそんな小説がたくさんあります。

私も常々、好きな作家である夢野久作や江戸川乱歩、海野十三などの小説を元に、仲間と一緒に、楽しいB級映画や幻想映画が作りたいなあと考えています。

 

そんな事を考えていたら、前述のコミック改変ドラマで大問題を起こしたテレビ局が、とっくに著作権が切れている「若草物語」をドラマ化する、というニュースが出てきました。

オリジナル作品を作る余裕はなく、改変問題に対処もできないのであれば妥当な策とも言えますが、私はこれはもしかしたら、「古いコンテンツを再利用する」という新しい流れになってしまうのではないか、と思っています。

私たちのような、低予算で作品を作るクリエイターと同じレベルに、テレビドラマの世界が下りてきてしまったわけです。

私は個人的に対抗意識を持って、今後の創作のモチベーションに繋げたいと思います。

参考になれば幸いです。

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