「現実にはあり得ない」という批判に反応するな
正確さを求めるさじ加減
インターネットの普及、SNSの普及で、誰もが大勢の人たちに対して発信を出来るようになりました。
それまでは放送や出版と言った発信媒体自身か、その媒体に取材されるような立場の人たちしか意見を発表する場はなかったわけで、特殊な立場にあったり権力を持たない人たちが少数意見を発信できる時代になったことは凄いことです。
一方で、発信する際の最低限のルールとか「発言を控えるべきこと」に無頓着な人の発信の多さには辟易することがあります。
特に、一番簡単な「他人への批判」は気を付けたいところです。
SNSなどで発信をして共感を得られると「承認欲求」が満たされます。
そうするとさらにその行動を繰り返したくなるのは人間の性質ですが、一番簡単な「批判」で安易に承認欲求を満たすようになると、はっきり言って害悪でしか無いんです。
「いやいや自分はみんなの不平不満を代表して言ってるんだ」
「もっと良い状態になってもらいたいからあえて意見しているんだ」
という人がいますが、それは「いじめ問題」で加害者が自分を正当化するための理屈付けと全く同じです。
事実として知っておくべきことは、「批判ばかりする人」はとても多くて、その意見のほとんどは的外れだから気にしなくていいということです。
創作の世界で良く聞く批判は「現実にはあり得ない」というものです。
それに対する正しい反応は「これは現実ではありませんよ」です。
- この裁判シーンの展開は日本の法律上あり得ない。勘違いする人が出ると困る
- 描かれたこの職業は実態と違う。正確に描いてもらわないと困る
こういう意見が、当事者から出てくるのであれば、必要に応じて観客に対して「この物語はフィクションです」ということを念押しするなりすれば良い訳です。
私は映画の「あぶない刑事」に対して「とても刑事に見えない」という批判を見て笑ってしまいました。
舞台となっている神奈川県警が「あんなに簡単に拳銃で発砲されると警察に抗議の電話が来て困るんですけど」と苦情を言うのなら分かりますが、実際には警察のポスターでコラボしてますからね。
もし、あなたの創作物やあなたが好きな創作物に対して「現実にはあり得ない」という批判をされても無視して良いですし、逆にあなた自身が創作物を見て「現実にはあり得ないなあ」と批判しようとしてしまったら、それは的外れな意見かもしれないぞと思い直した方がいいです。
生真面目な作家ほど事実に縛られる
創作者視点で考えると、「現実」「事実」というものの魅力は、圧倒的なリアリティです。
観客を物語に没入させるための道具として「事実」を盛り込むことは有効ですから、題材に対して取材をしたり、作者自身が参考になる体験をしたりして、事実の要素を取り込む訳です。
「作家って大変だなあ」とも思いますが、一方で、取材や体験をすることで創作のヒントが増えて、話を作りやすいという理由もあるはずです。
例えば小説を書こうとしたとき、別にリアリティーを重視しようとも思わず、自由に書くときでも、自分が経験したことや行ったことがある場所の描写は「楽」なんです。
森の中で茂みをくぐるときに蜘蛛の巣が張っていないか気にしたり、足元が悪いところを歩くときはどうしても下ばかり見ることになって、歩きながら周りを見渡せるもんではないことを知っていたりすると、それをそのまま描写しただけで、その場面がリアルで魅力的になるということはあります。
それを、全くの想像だけで生み出すのは難しいでしょう。
でも、度が過ぎる下調べも考え物です。
京極夏彦という作家は、「昭和何年何月の東京」というのを舞台にするときに、どこまで取材して書くべきか分からず、当時の天候記録を入手して、それに合わせて書いていたと言っていました。
これは本人も笑い話にしていましたが、もちろんここまでやっていたらいつまでたっても創作は終わりません。
もし苦も無く文章が書けるのであれば、必ずしも先に取材をしなくても良いと考えます。
「ここにリアリティが欲しいが必要な知識や経験が無い」と感じてから必要な取材や体験をして、追加修正をするという順番の方が、創作ペースは上がると思います。
映画は虚構で「真理」を語る
映画でも小説でもコミックでも同じなんですが、仮にそれが実際に起きた事件を元にしていたとしても「フィクション」です。
作品として形にするために、事実から色々な要素を取捨選択する時点で、「現実」ではないんです。
例えば、陰謀論などを題材にした作品を観て、それを「事実」だと思い込んでしまうのは危険です。
では「作り話なんだから真に受けるな」という見方が正しいのかというと、そうではないと思うんです。
「これはフィクションだけれども、こういう事態になったとき、人はどう行動すべきだろうか?」という思考実験や提案、場合によっては疑似的な訓練の要素もあると思うんです。
例えば、「世界的な感染症で人類が壊滅してしまう」という内容の作品は昔からたくさんあります。
現実に2020年に起きた新型コロナウィルスの感染拡大によって、ほとんどの人々はマスクをする生活を強いられました。
古い映画作品の中では、一般の人々がマスクをしていないので
「所詮、作り話だね。現実とは違う」
と批判する人がいましたが、感染拡大によって治安が乱れ、パニックになっていく様子や、いわれのない差別行動など、見事なまでに表現していたりするんです。
映画の観客としては、登場人物の差別的行動に「愚かだなあ」と思って憤っていたり、パニックになってこういう行動をとっても意味が無いのになあ、と感じられますが、現実世界ではそのままの状況がありました。
つまり、映画という虚構の中にも学ぶべきことがあるという事なんです。
シンプルな寓話の中にも学びがあるくらいですから、これは当たり前です。
これは、必ずしも作者がそこまで考えて作っていなくても、見る側の意識によって教材になり得ます。
むしろ、道徳の教材映画のなかで説教臭く訴えられるより、自然に受け入れやすいメッセージにもなるでしょう。
そして、その「学び」は、作品を観て「現実にはあり得ない」と言って揚げ足ばかりとっていては決して得られないんです。
せっかく時間を使って創作を鑑賞したのであれば、批判による僅かばかりの承認欲求を味わうより、もっと大きな利益を得た方が幸せじゃないですか?という提案がしたいわけです。
虚構の中の辻褄合わせで十分
創作者としては何を心掛けるべきかを考えてみると、「現実にはあり得ない」という批判は無視するとして、「辻褄が合っているかどうか」に重点を置いて考えることが大事だと思います。
つまり、「その世界の中で実在しているように見えるかどうか」を自分の評価ポイントにするということ。
例えば、物語を描く上で、この登場人物は破天荒な行動をとって欲しいとしても、あまりにも後先を考えずに行動する様子に観客は苛ついてストレスを感じるかもしれません。
逆に、バランスを取るために登場するキャラクターがとにかく悲観的だったりしても、観客としてはイライラしてしまいます。
ところが、辻褄合わせとして「この人がこういう言動なのには、実は理由があって」という設定があって、それをチラッとでも感じさせてもらえれば、途端にその虚構世界にはリアリティが生まれて、楽しめるようになるんです。
現実にあり得ようがあり得まいが、その辻褄合わせが創作物を面白くするポイントだと思っています。
物語創作においては、自分の中に生じた勢いを利用して本来の自由な創作を楽しみ、よりリアリティーを出して作品の魅力を増すために辻褄合わせの作業を盛り込む、必要に応じて調査もしてその知識も加える、というやり方が有効なのではないでしょうか。
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