長編創作への憧れを捨てたくない人へ・オムニバス形式を意識して設計する

創作を始める動機

大抵の場合、創作物というのも、私たちは「観客」としてそれに触れると思います。

小説が好き、映画が好き、という人は鑑賞者として好きなのであって、必ずしも「好きだから自分でも作ってみたい」とはならない筈なんです。

これは食べ物やスポーツにも当てはまりそうですね。

 

「そんなに好きだったら自分でも作ってみる?(やってみる?)」と言われたときに、ほとんどの人は

  • 自分で作る(体験する)ほどではない
  • あくまで鑑賞が好きなだけ
  • 自分には出来るわけがない

という反応をします。

「やってみたいなあ」という人はごくごく少数派なんです。

 

私は自分が創作を趣味にしていて楽しい思いをしているので、同好の仲間を増やしたい気持ちはありますから、「やってみたいなあ」という人を応援したくはなります。

ですが、創作の趣味の中でも小説や映画といった「物語」の要素が入ったものは、正直、簡単ではないというか、一手間多いので形にするのが面倒なんです。

もちろん、その面倒な分、満足度が高い創作とも言えますが、なかなか形にならないことでその満足感を味わうことなく活動を辞めてしまう人もいます。

実際は「なんか大変そう」という想像で、そもそも行動を起こさない人がほとんどなので、挑戦しようとする人はわずかな割合です。

 

最近では「自分ではあまり小説を読んだことが無いが書いてはみたい」という人や「映画はあまり見ないけれども自分で作ってみたい」という人もいると言います。

私はそれを批判する気も馬鹿にする気も無くて、「まず先に小説を読め!」とか「名作映画を50本観てからにしろ!」と批判する人の方にむしろ嫌悪感を憶えます。

 

別に「法律の勉強は一切せずに弁護士になりたい」とか「運動は嫌いだから理論だけ勉強してプロスポーツ選手になる」と言っているわけではないんです。

「法律は分からないけど弁護士として活躍したい」からスタートして、「法律の勉強が必要なのか」となってから勉強しても良いし、「プロスポーツ選手になりたい」という憧れが先にあって、「それには体力が必要だ」「センスがあるかどうか試す必要もある」と知って努力をスタートする、でも全く問題ないし、むしろ「お前は背が高いからスポーツをやれ」と言われるより健全で純粋な思考の順番だとも思えます。

 

SNSで短文を毎日書いていたら、文章を書く楽しさを知ったから小説を書いてみたい。

素晴らしいじゃないですか。

スマホで簡単な面白動画を撮ってみたら案外楽しかったから、映画を作ってみたい。

素晴らしいじゃないですか。

 

意識が高い(系)の人たちは、自分の見識を披露したい気持ちは分かりますが、やる気を持った人たちの行動の邪魔だけはしないようにお願いしたいです。

どうしていきなり長編大作に挑戦したくなるか

でも、せっかく行動を起こそうと考えた人たちも、多くの割合が「創作初心者の罠」にはまってやめていきます。

それは「いきなり大作に挑戦する」という罠、いわゆる「高望み」です。

これは私にはリアルに理解できます。

なぜなら、私はまさにこの罠にはまり続けてきた一人だからです。

その失敗経験者だからこそ、「もっと良い手があるんじゃないか?」と常々考えているんです。

 

そもそも、小説にしろ映画にしろ、どうして私たちは最初から長編大作に挑戦したいと思ってしまうのでしょうか?

それはやはり、鑑賞者としてプロの作った長編作品を観て「面白いなあ」と感じた経験からではないでしょうか。

 

長編作品を鑑賞し終えて、心地良い疲労感と共に「ああ面白かった」と感じるだけでなく、一部の創作気質がある人は「こんな作品を自分でも作ってみたいなあ」となるわけです。

ここでお手本になっているのが短編小説とかショートムービーなら、あまり問題では無いんですが、大抵の場合、商業作品は長編なんです。

長編作品ならではの、作品の中の歴史が積み重なって面白味を増している状態、これを感じ取れるので、「自分でも」という気になるんでしょう。

私はそうでした。

 

いくつか私が知った、創作における「難所」というか「壁」があります。

  • 始める壁
  • 続ける壁
  • 完成させる壁

 

始める人は全体の数%しかいませんから、「始める壁」は一見大きな壁です。

でも、そもそも創作気質がある人にとっては、実は大きな壁ではないんです。

解説本を読んだり、見よう見まねでやってみてしまうという時点で「始める壁」を越えているわけで、逆に言えばこの壁を勝手に越えてしまう人には創作気質があると言えるのかもしれません。

「ここが大きくてとても越えられない」と感じるのであれば、そもそも創作でない事の方が楽しめる人かもしれません。

必ずしもみんなが創作をするべきという訳ではありませんから、鑑賞者として楽しむ生き方も大いに歓迎すべきです。

 

問題は、「続ける壁」と「完成させる壁」です。

「続ける壁」は根気と執念が必要ですが、逆に言えばそれさえあれば越えられます。

「完成させる壁」が最大の問題で、これを越えるには根気と執念だけではなくて、「この要素はこれで完了とする」という判断力・決断力(妥協力)が必要になります。

これは、自分の中の「高望み」との葛藤になるわけで、経験が浅いうちはどうやって完成品に仕上げればいいのか分からなくなりがちです。

それこそ締め切りを決めて、暫定版としてでも完成させるという経験をするのがとても大事になると思います。

 

私の場合、この「完成させる壁」を子供の頃から越えられずに難儀していました。

完成させられない理由は割とはっきりしていて、「未完成」の状態だと、想像力に補完されて「素晴らしい完成品になるかも」という希望を持ち続けられるからなんです。

大抵の場合、苦労して完成させても「ああ、こんな程度のものか」と自分の理想より低い完成品を観てがっかりします。

でも、その「実力を確認する作業」が必要不可欠で、それを避けようとすると、私のようにいつまでも未完成状態を保たせることになってしまうんです。

そのうちに情熱は冷めて、作りかけの作品は捨てるに捨てられない、ゴミのようなものになってしまいます。

 

そんな状態に比べて、たとえ技術的に拙くても完成した作品は鑑賞する事が出来ます。

それだけで凄い情報量を持ったコンテンツとしての価値が生まれるんです。

私が常々、「もっと撮影にこだわったら?」と批判されながらも、撮影効率を上げる工夫ばかり紹介している理由は、ひとえに「撮影にこだわってしまうと我々素人は製作頓挫しがち」と知っているからです。

「完成させる力」というのも人それぞれですから、問題なく完成させられる人はもちろん、楽しい撮影にこだわれば良いとは思います。

 

それで、「十分な技術力もスタミナもないけれども、どうしても長編作品を作ってみたい」という際の解決案です。

 

ここでは、つまらない正論として

「短編で練習を重ねて実力を付ける」

「長編を完成させるためのスタミナをつける」

「効率よく書く作業が出来るように、構成を先にしっかり設計する」

という話をする気はありません。

 

「短編で練習を10年も繰り返せば、長編も撮れるようになるよ」と言われても、そんなに楽しみを先延ばしに出来るわけもないし、また、若い人も年配の人も、先延ばしにする癖は無くしたほうが良いんです。

京極夏彦風独立セクション方式

そこで私が提案するのは離れ業です。

あなたの構想中の長編作品を分析して、細かく分割しましょう。

おススメなのは「章ごとに独立したエピソードとして設計する」ということです。

 

これにはとても良い見本があります。

京極夏彦という作家の長編小説です。

この作家の本は「弁当箱」と呼ばれるくらい、分厚い長編作品が多いんですが、読んでみると、章ごとに綺麗に別エピソードが並んでいるんです。

大抵の場合、章が変わると場面も登場人物もガラッと入れ替わって、まるで違う話が始まったような感覚も持つくらいです。

話が進むにつれて、それらの登場人物が関連を持って行って、クライマックスでは全てのエピソードが「ああ繋がった」という面白さを味わえるんですが、参考にすべきは、各章のエピソードだけでも概ね、物語として一段落していて面白い、という点です。

 

経験の浅い人が構想している長編大作は、そのまま手を付けても正直、まず形に出来ません。

私の今までの多くの失敗のように、「7割がた撮影は進んだが、途中で力尽きて頓挫」ということになる可能性が高いと思います。

そこで、長編の構想は捨てずに、その中にいくつかのエピソードを持たせて、一番実現可能性の高い部分を、短編作品として設計して作品にするんです。

大抵の場合は、物語の発端付近のエピソードになるでしょう。

例えばその小さなエピソードの最後に、長編作品のカギとなる情報が手に入って終わる、というような形も理想の一つです。

出来るだけ早い時点でこの短編作品を完成させて公開しましょう。

それは、短編製作としては1つ終了ですが、長編作品の第一歩として、確かに結果を残したことになります。

 

この「1つ完成した」という事実が、その後のモチベーションの命綱になります。

こうやって1つずつ短編を完成させれば、いずれ最終的に2時間の長編作品が出来上がるイメージが明確になるでしょう。

あるいは、他にもっと作りたい作品が見つかる場合があります。

これは創作者なら当然のことです。

そのときも、短編を作っているのであれば、1本を作り上げた後に、長編以外の別の作品に取り掛かっても、中途半端にはならないんです。

もっと事情が変わって、その長編の構想そのものに魅力を感じられなくなることもあります。

創作者自身、成長も変化もしますから、これは当然です。

長編作品を構想していたけれども、その一部を短編作品にしたら十分に満足してしまって、気が済んでしまう、ということも多いんです。

これはけっして悪いことではありません。

「こういうものを作ってみたい」という欲求は満たせたうえに、短編作品として完成しているわけですから、その労力は全く無駄にはなっていないんです。

むしろ「実はこれ元々は、長編作品の一部という構想でさ」という隠れた魅力あるネタが残るだけなんですね。

 

繰り返しますが、初めから長編に挑戦すると、作品を完成させない限り、成果物は「ゼロ」です。

もちろん、それまでの経験や身に付く技術は無駄ではありませんが、自分自身で持ってしまう「中途半端で終わらせてしまった」「未完成に終わった」というネガティブなレッテルは大きな傷になって残るんです。

これは自己肯定感を著しく低下させます。

 

「どうせなら長編の立派な作品を作りたい」という思いは大切です。

私も全く捨ててはいません。

それを達成するために、長編をオムニバス形式で分割して企画し直す、という手法を、私も身に付けたいと思います。

これは映画だけでなく、小説などの物語創作全般に有効な手法ではないかと思いますがいかがでしょうか?

 

参考になれば幸いです。

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