芸術映画は天才の領域か?

簡単に動画の撮影ができて、自主映画・個人映画が作れる時代になりましたから、どんどん映画を作りましょうと言っています。
通常お勧めしているのはオーソドックスなエンタメ作品です。

創作の動機はさまざまあるんですが、観客からすると創作物の鑑賞は「暇つぶし」です。
いい暇つぶしになるものかどうかが評価の基準です。
特に今は、使える時間のほとんどはスマホを見ているというようなことが多いわけです。
そうするとスマホ時間をどれだけ奪い合うかという話です。
スマホで漫画を見ている人もいれば、ゲームをしている人もいます。
「スマホで自分たちが作った映画を見て欲しい」というと、なるべく良質な暇つぶしの材料を作らないと見てもらえないわけです。
オーソドックスなエンタメ作品を作りましょう、という理由は、エンタメにはある程度「型」があって、サマになりやすいからです。

映像についても「映像理論」があります。
別にこれを守らないからと言って、罰則があるわけではないし、作品が成り立たないわけではないんです。
ただ、特にアマチュアの作家にとっては、観客が見ていられないものになると作品が無駄になってしまうので、映像理論も最低限は押さえて、見やすい映像にしませんか?という話なんです。

でも、別の考えもあります。

映画にはそもそもいろんなものがあります。
オーソドックスなエンタメ作品もあれば、作家の感性を優先した「いびつな作品」もあります。
基本的にはオーソドックスな作品の方が観やすいのは事実なんですが、私自身、サブスクにある映画の中から何を選んでいるかと考えてみると、正直、必ずしもオーソドックス作品だけを見ているわけじゃないんです。
例えばアマゾンプライムビデオを利用すると、見たことも聞いたこともないような作品も出てきます。
何かが破綻していて、物語もよく分からない、明らかにレベルが低い作品もあります。

ただ、
その中には「何だか分からない魅力」がある作品も含まれているんです。

そういう作品を見てしまうと、面白いかどうかはともかくとして、「こういう風にちょっと毛色の違う作品も見てみたい」という感覚が湧いてくるんです。
それをジャンルで分けるとすると、正しいかどうかは分かりませんが、「芸術映画」あるいは「実験映画」かもしれないと思うわけです。

話はよく分からない。
ただ、圧倒的に映像の魅力があるという特徴が共通するジャンルです。

例を挙げると、私が大好きな作品として「ドグラ・マグラ」があります。
夢野久作という人の遺作小説を原作とした作品です。
実験映画で有名な松本俊夫監督作品です。
主演の桂枝雀、松田洋治の二人が素晴らしい魅力を発揮していました。

それから、鈴木清順監督の作品。
一筋縄ではいかない毛色の変わったシーンがたくさんあって、不思議な魅力があるんです。

イギリスのケン・ラッセル監督の作品も私は大好きです。
一番有名なのは「アルタード・ステイツ」という映画かと思うんですが、幻覚成分のある植物を使ってトリップすると、その幻覚に浸りながら、体の方もなぜか先祖返りしてしまうというような、ちょっと荒唐無稽な作品です。
映像は、シュルレアリズム画家のサルバドール・ダリの絵画と近いイメージです。
その摩訶不思議な世界を映像で表現しているんです。

最近亡くなった、デイヴィッド・リンチ監督。
テレビシリーズの「ツインピークス」で有名ですが、この人の映画というのも非常に変わっています。
私は昔、観た時には何が面白いんだかさっぱり分からなかったんですが、「全然分からない」「何だこれは?」というところが魅力に感じてしまうような作品群を撮っています。

こういう芸術映画、実験映画は、圧倒的に映像が綺麗で魅力的という特徴があります。
もし、これをある程度追求できるのであれば、アマチュア作家でも芸術映画、実験映画の類いのものを作ってみても、もしかしたら面白いのかもしれないと最近感じています。

芸術家ではない人が芸術映画的な作品を作ろうという訳ですから、もちろんこれは邪道な話です。
でも、勝算もあると思うんです。

例えばお芝居。
達者な人の演技はみんな見慣れています。
私たちが作る作品には、全く芝居ができない人が出ることがあります。
その時に「演技しなくていいです。普段のまま、何も飾らずに台詞を言ってください」という形で撮影すると、思いの外これが魅力的なことが良くあります。
初めから演技を捨てたために魅力が出てしまうという、役者の人にとってはちょっと屈辱的な現象が実際起きるんですね。
技術が拙いことを逆手にとって成功してしまうという例です。
これが映像の中でもあり得るという発想です。

オーソドックスな映像の構成があります。
これは見やすくて分かりやすい映像です。
ところが、芸術映画では、通常であれば繋がりを自然にするための映像理論を無視して、ズバっと唐突にぎょっとするような映像を繋げてしまったりするんです。
だから映像としては繋がってないんです。
もちろん本物の芸術映画は、これを狙ってインパクトを出すわけですが、もしかしたら技術のないアマチュア初心者がこれを真似してやっても、案外サマになって見える可能性があるな、と思うんです。

「何を言ってるんだ。そんなもの芸術でもなんでもない!」と言われれば、それはもっともな話です。
シャレで芸術映画風のものを作ってみましたというものに過ぎないことは否定はしません。

ただ、観客にとって映画は暇つぶしでいいんです。
アマチュアが作っているのに、まるでテレビドラマのように見やすい作品。
これはこれで魅力です。
でも、オーソドックスな面白いドラマは、目の前に溢れかえっているわけで、わざわざアマチュアが作ったものを見る動機は見当たりません。
でも偽物だとしても、芸術映画みたいな、ぎょっとするような映像美が含まれていて、ちょっとシュールで理解が難しい映画は珍味にはなり得ます。
ライバルが少ないからです。

具体的にどうやったら芸術映画っぽい作品になるか。

物語を作る必要はありますが、筋らしきものがあれば、もしかしたら充分かもしれない。
芝居も芝居らしきもので良しとする。
例えば台詞にしても、わざと意味不明にして、観客の深読みを誘う形を意識したらどうでしょう?

もちろん我々が作るレベルですから、鈴木清順だとか、デイヴィッド・リンチ並みのものが作れるなんて、そんな大それたことは言いません。
所詮は偽物です。
でも、一見それらしい「楽しい作品」が作れたら痛快じゃないですか?

必要なのは映像美です。
ケン・ラッセルの映画などを見ると、どぎつい「映像の合成」も非常に有効かもしれません。
それから、自然の造形美。
岩の形だとか、コーヒーのカップの中に広がるミルクの模様とか、こういうものもうまく使うと、映像美の実現に役立つかもしれません。
それから、シュールな設定で変なことを大真面目にやって、見栄えがするように丁寧に編集をするのも効果が出そうです。

オーソドックスなドラマを作ってうまく仕上げても、多くの商業作品の中に埋もれてしまいますが、競争相手の少ない芸術映画であれば、もしかしたら特異な存在として目立てるかもしれません。

特に日本の映画を見てみると、みんな概ね真面目なんです。
なかなか特殊な感性で作られたものが少ない。
ちょっと王道から外れているものは、ほとんどがナンセンス・コメディみたいな作品という印象です。
そうではなくて、あくまでも特異な映像美術を前面に出した「芸術映画」を作ると、言語を超えたファンも獲得できる可能性があるのではないでしょうか?

参考になれば幸いです。

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