インターネット時代の創作:誰もが発信者になれる新時代に批判発言が不要な理由

誰もが発信できる時代の素晴らしさ

90年代に登場して私たちの生活を一変させたのは、何といっても「インターネット」だと思います。

情報を受信して消費する側にいるだけの人にとっては、その情報源が増えただけなので「より便利になった」という印象しかないかもしれませんが、情報発信者にとってはインターネットの有無は雲泥の差です。

 

例えば、昔から趣味で小説を書く人は一定数いました。

私が高校生になったとき、仲良くなった同級生が映画マニア・小説マニアで、普段から脚本や小説を書いている事を知ったときの衝撃は今でも憶えています。

しかも、原稿用紙に手書きで書かれた物語はどれも面白く、普通に小説を読む感覚で楽しめるレベルだったので、アイデアだけでなく文章力も高かったのだろうと思います。

 

そんな、アマチュア作家は自分の作品をどうしていたかというと、もちろんコンテストに出品することもあるでしょうが、多くは死蔵させていたんです。

コンテストに出品しても受賞しなければ世には出ませんから、結果的にはやはり死蔵です。

 

マンガや映画なども同じです。

その業界で認められない限り、完成作品を目にするのは非常に狭い仲間内だけになります。

 

一つ勘違いしてはいけないことは、「商業的に認められないからレベルがとても低い」とは限らないということです。

もちろん、プロは膨大な経験をする中でさまざまな技術を向上させますから、皆、一定以上の技術レベルを持っています。

ただ、「商業的に認められない理由」は必ずしもレベルの低さとは限らないんです。

理由の一つは「需要の多さ」です。

 

その作品を商品にするためにはコストが掛かります。

価格は相場が決まっているので、「いくつ以上売れないと赤字になる」ということは最初から分かっているわけです。

例えば、マンガや小説を販売して黒字にするためには2万人に買ってもらう必要があるとします。

その作品のレベルが非常に高くて面白かったとしても、ジャンルが特殊だったりして、買ってくれるファンが200人しかいなければ、商業作品には出来ないわけです。

ただ、200人のファンには熱狂的に支持される可能性があります。

 

デジタル技術全般とインターネットの組み合わせは、コストを大きく変化させます。

小説やマンガなど、印刷物として存在していた商品は、デジタルデータとして完結させることで、

  • 印刷代
  • 製本代
  • 輸送代

といったコストがほとんどゼロになります。

場合によっては200人にしか売れなくても、充分、黒字化できる可能性が出てくるわけです。

 

コストを掛けずに誰でも発表出来るわけですから、世に出る創作物の数は膨大になります。

創作の魅力は作者の自己実現・承認欲求を満たす事であり、鑑賞者が珍しいものを味わう楽しさだったりしますから、私はインターネットの活用を大歓迎しています。

悪の承認欲求に飲み込まれるな

一方で非常に残念な一面もあります。

それは創作者・作品発表者の数と比べて、あまりにも多くの「批評家・批判家」が出現することです。

 

SNSなどの発信のうち、かなりの率が悪口や批判・批評で占められているのが現実です。

公開された映画を見て「面白かった!」と発信する人がいる一方で、「ひどい出来だ」と偉そうに酷評する人々が大量にいます。

もちろん、その人がつまらなかったと思ったのは本心でしょうが、あえて「つまらない作品だ。見る価値は無い」という発信をする必要は全く無い訳です。

理由は

  • 創作する人の邪魔になるから
  • 他の観客が得られたかもしれない満足感を奪うから
  • 発信者自身の人徳がどんどん下がるから

などです。

 

他人の創作物に対して欠点を見つけて指摘することは、実はとても簡単です。

本人は自分の見識の高さをひけらかしたいのかもしれませんし、「こんなにつまらない作品を見て後悔する人を少しでも減らしたい」という意識もあるかもしれませんが、実は「作品を楽しむ能力」が著しく欠如していることも多いんです。

「作品を楽しむ能力」は調子に乗って人の作品を批判してばかりいるとどんどん弱くなっていくようです。

 

大抵の場合、批評家・批判家は嫌われます。

その作品を楽しんだ側からすれば「その程度の作品で喜んでるの?(笑)」とバカにされているようなものですから、嫌われて当然です。

次第に仲間は同じ批評家・批判家ばかりになっていきます。

 

では、なぜ嫌われることになる批評・批判ばかり発信してしまうのか。

これは実は、創作者が作品を発表したいのと同じ、「承認欲求を満たすため」だと思うんです。

先にも言ったように、批判は創作に比べてはるかに楽ですから、ケチをつけるだけである程度の反応を得られると、承認欲求が満たされてしまって、やめられなくなるのではないかと思われます。

これは言わば「悪の承認欲求」とでも呼べるものです。

 

結論を言うと、仮に1つの創作物について「つまらなかった」と思っても、ことさらそれを発信して、良いことは無いんです。

ノーコメントが正解だと思います。

 

他人の創作物に対して、もっともらしく偉そうに批判しているのは、滑稽であり醜悪でさえあります。

ただ、「承認欲求」の魅力はとても大きいので、私たちは無意識にそれを求めてしまいます。

気を付けないと、うっかり批評・批判をして承認欲求を満たしてしまいがちだということを知っておくべきです。

お互いに気を付けましょう。

 

そして、創作者として発信する人は、ケチをつけるのが目的の人の意見は無視しましょう。

欠点を見つけて解説するより、はるかに難しいことに創作者は挑戦しています。

批判されるような内容については、反省点としてとっくに気付いている事ばかりだと思います。

けっして批判合戦に参加することなく、その作品を喜んでくれる人の反応を想像しながら創作活動を続けて欲しいと思います。

 

参考になれば幸いです。

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自分で原案を考え、脚本化したストーリーを元に一つ一つのシーンを撮影して形にしていく「自主映画制作」という趣味では、とても大きな満足感を味わえます。
仮に誰にも完成品を見せずに一人で鑑賞するとしても、えも言われぬ達成感、大げさに言えば作品の中とはいえ「世界を創造した万能感」に浸れるのが映画作りです。

さらに、他の人に作品を見せて高評価を得られたりすると、とても嬉しい気持ちになります。

特に現代は自分から情報を発信する手段がたくさんあります。
一般の人が自分で撮った写真や文章を大量に公開する時代です。
公開して得たい「承認欲求」は思いのほか強く、自分で作った映画はその最大級の満足を生み出す可能性があります。

ただ、難点を挙げるとすれば、「写真を1枚撮って画像加工アプリで仕上げれば完了」というような手軽さが「映画作り」には無いことです。
実際にはとても大きな満足感と引き換えに、そこそこめんどくさい作業を伴うのが映画作りです。
(そこがまた、面白いところでもあるんですが)

 

(This text was written using automatic translation.)

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